蜂須賀正勝はなぜ阿波を治めなかったのか――蜂須賀小六を「領地」だけで見ない
蜂須賀小六として知られる蜂須賀正勝は、阿波を与えられなかったのではなく、別の役割を選んだ。その判断を、公式資料に残る三つの手がかりから考える。
「蜂須賀小六」の名で知られる蜂須賀正勝を調べると、阿波との関係が気になる。豊臣秀吉から阿波を与えられる機会がありながら、実際に阿波へ入ったのは嫡子の蜂須賀家政だったからだ。
阿波を治めなかったのは、失敗だったのか
徳島市の公式解説によれば、正勝は天正9年(1581)には播磨国龍野城で5万3千石の大名となっていた。さらに天正13年(1585)、秀吉は正勝に阿波を与える意向を示したが、正勝は秀吉の側近くに仕えることを望み、家政が阿波を拝領したとされる。
ここで重要なのは、正勝が領地を得られなかったという単純な話ではないことだ。少なくともこの経緯からは、正勝が新しい領地の獲得だけでなく、秀吉の近くで仕える立場にも価値を置いていたことが読み取れる。阿波を治めなかったことは、出世の行き止まりというより、自分の役割をどこに置くかという選択だった。
一通の書状から見える、領地とは別の役割
徳島市立徳島城博物館が紹介する長宗我部元親書状は、四国出兵後に元親から正勝へ送られたものだ。書状には、秀吉の赦免について正勝への謝意を述べ、今後の「指南」を求める内容が記されている。
この一通だけで正勝の権限や活動範囲をすべて説明することはできない。それでも、受け手である正勝が、秀吉の判断と四国側の大名を結ぶ人物として意識されていたことはうかがえる。阿波という一国を直接治めなくても、秀吉の近くにいることで果たせる仕事があった、という見方を支える史料だ。
肖像画は「小六」のイメージをどう変えるか
徳島市の解説によると、「蜂須賀正勝画像」は天正14年(1586)に制作され、徳島県指定有形文化財となっている。正勝の嫡子・家政が、父の遺徳をしのんで描かせたものだ。
肖像画は本人の行動をそのまま記録した資料ではない。しかし、家政が父をどのような人物として後世に残そうとしたのかを考える手がかりにはなる。正勝を「小六」という呼び名や後世の人物像だけで決めつけず、阿波をめぐる選択、元親からの書状、家政が残した肖像を並べて見ると、領地の大きさだけでは測れない役割が浮かび上がる。
蜂須賀正勝についての答えは、「なぜ阿波を取らなかったのか」ではなく、「なぜ秀吉の近くに残ることを選んだのか」と問い直すと見えやすい。徳島市の公式資料が示しているのは、阿波を家政が治めたという結果だけではなく、正勝が中央との関係のなかで別の重みを持っていたということだ。