蜂須賀正勝は何をした人か――「蜂須賀小六」と徳島の始まりを分けて読む
徳島城を築いたのは誰か。正勝が阿波を辞退した事実から、蜂須賀家と徳島のつながりを読み直す。
結論を先に書くと、蜂須賀正勝は、徳島城を築いた人物とだけ考えるよりも、阿波を与えられる予定を辞退し、嫡子の蜂須賀家政が徳島へ入る道をつくった人物として捉えると理解しやすい。正勝は「小六」の名で知られ、織田信長・豊臣秀吉に仕えた蜂須賀家の家祖と、徳島城博物館は説明している。
阿波を受け取ったのは正勝か、家政か
徳島市の「とくしまヒストリー」によると、四国平定後、豊臣秀吉は阿波国を正勝に与える予定だった。しかし正勝は老齢を理由に辞退し、秀吉の側近として仕えることを望んだ。そのため、阿波を拝領したのは正勝の嫡子・蜂須賀家政だった。
家政は秀吉の指示を受け、猪山、現在の城山に築城を開始した。地名を「渭津」から「徳島」へ改め、徳島城と城下町の建設を進め、城は翌天正14年(1586年)に完成したとされる。
ここから見えてくるのは、正勝と家政の役割が異なるということだ。正勝は秀吉との関係のなかで家の進路を選び、家政は阿波の領有と築城を担った。「徳島をつくったのは正勝」と一人に集約するより、「正勝の辞退を経て、家政が徳島を形にした」と整理するほうが、経緯を正確に説明できる。
「蜂須賀小六」のイメージをそのまま史実にしない
正勝は後世に「野盗の親玉」や「荒武者」といった姿で語られることがある。一方、徳島城博物館の解説は、そうしたイメージと、信長・秀吉に仕えた蜂須賀家の家祖としての正勝を区別している。
ただし、公式の肖像画があるからといって、それを正勝の姿をそのまま写した記録とみなすこともできない。「蜂須賀正勝画像」は天正14年(1586年)の制作で、正勝の死後まもなく、家政が父の遺徳をしのんで描かせたものと説明されている。つまりこの肖像は、正勝の外見だけでなく、家政が父をどのように顕彰したかを考える資料でもある。東京文化財研究所のデータベースにも、同画像の制作年と所蔵情報が掲載されている。
書状が残ることと、内容を断定することは別
東京大学史料編纂所の調査報告には、天正11年(1583年)3月21日付と7月27日付の蜂須賀正勝書状が、徳島県立博物館や徳島城博物館の所蔵文書として記載されている。ただし、このページは史料の調査・撮影記録であり、書状本文の翻刻を掲載したものではない。
そのため、正勝の書状が残っていることは確認できても、そこから交渉の詳細や性格まで推測して断定するのは避けたい。小説や講談の「小六」と、肖像や書状目録から確認できる正勝を分けて読むことが重要になる。
正勝を理解する鍵は、「徳島城を築いたか」だけではない。阿波を直接受け取り、築城と城下町の整備を進めたのは家政だった。一方で、正勝が阿波を辞退したからこそ、蜂須賀家の徳島との関係は家政の事業として始まった。この父子の役割分担を押さえると、蜂須賀正勝は伝説的な「小六」ではなく、家の進路を選んだ歴史上の人物として見えてくる。